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与謝蕪村

 
与謝蕪村の句に

 身にしむや亡妻の櫛をねやに踏む

というのがあります。妻に先立たれた男が寝間に亡妻の櫛を踏んだら
そうりゃードンだけ辛いだろう。うーん判るなあーと普通思います。
しかし、まだ妻が生存中だとしたら話は別です。

 負けまじき角力を寝ものがたり哉

相撲取が負けた悔しさを共寝した女に愚痴っている様をうたっています。

 戸を叩く狸と秋を惜しみけり

これは芭蕉の「ゆく秋を近江の人と惜しみけり」をもじっているのは明らかです。
芭蕉がこれをみたら何といったでしょうか。既に物故だったから問題なかったです。

 化けそうな傘貸す寺の時雨哉
 
 ふんどしをせぬ日軽業のぞまれて

蕪村のおふざけ、今なら「お茶目」で充分受けます。

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江戸時代の謎の遊行仏師

この高さ60センチほどの木彫仏像四天王四体は那須烏山市滝田の東江神社にかって
存在していたものです。かれこれ40年程も昔のことですが、もしや木喰上人の作で
はないかと武蔵野美術大の講師だった久野先生に同行頂いたのがこの四天王像です。
その当時、私は木喰の名を聞いてはいましたが、その全容も特徴も知るべくもない
学生でした。私はここ烏山生まれでしたのでこの仏像の存在を叔父から聞きました。
まず写真を先生にお見せしましたが、実物を見ないと何ともいえないと言うことで
遥々ご足労いただいた次第でした。結果は先生も木喰ではないだろうという判断で
したがこの木像の作者の力量は評価されていました。
仏像製作上相当の儀規は踏まえているし、規範的な優等生的印象と言えると思う。
確かに木喰上人の特徴は見られないし、ましてや円空の特徴とは対極にありそうな
生真面目な彫刻なのである。
昨年暮れに当神社に40年振りに訪れてみたのですが残念な事に、お堂の中には有り
ませんでした。神社(八幡宮)と曹洞宗としてのお堂が並存している神仏習合の小さ
な境内ですが、管理をされている様子もありませんし、施錠もしてないので簡単に
入室出来るなんとも物騒で荒れ放題の風情でした。帰ってから市の商工観光課に尋
ねてみましたが、正式には三峰山養山寺といい、曹洞宗のお寺ですが管理主体が不
明で一応同宗派の別寺院が受け継いでいるらしいとの事でした。

四天王1-2

四天王2

四天王3

四天王4

江戸の俳諧師達

烏山八景碑
 那須烏山市の旧烏山の市街地を抜けて旧294号線を山裾沿いに北へ向かう。烏山高校を右に見ながら
1キロ程行くと左側に山崎園芸店という店があり、その北側の細い山道を乗ったところが東江神社である。   看板も無いし烏山滝田天満宮とも東江神社ともいい、存在自体が解りにくい。
しかしながら此処に書かれた碑文は烏山の文化度を示す並々ならぬ例証である。ここに記されているのは江戸の俳諧史を語る上で欠かせない俳人たちの八句である。碑文自体劣化し判読し難い状態だが、名筆である。私の叔父は拓本を採っていた。
早野巴人はここ烏山の生まれであり、幼少で江戸へ出、蕉門基角嵐雪の門下生となる。この烏山天満宮に烏山八景を奉納したのは巴人27歳の時だというから、すごい。また与謝蕪村の師匠で知られるが蕪村が26歳の時巴人は67歳で亡くなっている。師亡き後、蕪村の結城、下館時代約10年間は夜半亭の先達砂岡雁宕の援助によるが、江戸時代の江戸と京都の往来はもとより、こうした地方拠点への俳諧同社の浸透交流は想像を超える。我々現代人には羨むべき人情厚きものがある。この巴人の人脈の錚錚たる様を偲ぶ縁をこの烏山八景は語っている。巴人以外ここに詠まれた地を実際に訪れて歌ったという証拠はない。所謂写生句では無い印象がある。恐らく巴人が故郷の素晴しさを語ったのではあるまいか。そしてそれに答えた俳人たちの想像力を褒め称えるべき句なのだ。もしくは別の見方として、この294号線はもう少し北へ辿れば、かって西行がうたい、芭蕉が訪れ、後に蕪村も詠んだ那須黒羽へ至る筋道である。また巴人の友人常盤潭北も江戸で修行した医者であり、夜半亭の門人達と親しく帰郷後も烏山で俳諧を嗜んだエリートである。存外烏山は「知る人ぞ知る」名勝地として知られていたかも知れぬ。
。a href="http://blog-imgs-17.fc2.com/s/a/i/saito702/IMG_0956.jpg" target="_blank">烏山八景1
烏山瀧田天満宮



 
鶯の氷らぬ声や朝日山     其角
中川やほうり込んでも朧月   嵐雪
独活蕨凡木こる日や比丘尼山  専吟
赤垂に猿の手ほしや底雲雀   翆風
花の夢こころ恥かし五郎山   渭北
大沢や入日を返すきじの声   柏十
その原や朧の月も興野山    湖十
水聞の水の動や家桜      巴人
 

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 江戸の俳諧士

木喰は何時から木喰となりしか!

 柳 宗悦が昭和18年に刊行した「木喰上人の彫刻」の挿絵の最初から2枚目の写真で、
栃木県鹿沼市栃窪にある薬師堂の木喰の初期の作です。 最も初期のものは北海道
江差に残るとされていますが、本州ではこの薬師堂の薬師如来と脇時日光、月光像と
12神将の15体が最も初期の作とされ、その12神将の内の一体がこれです。
45歳の時、常陸の国木食観海上人より木喰戒を継ぎ、本廻国修行の大願をたてますが、
安政2年2月56歳の時千躰の仏像を刻むことを発願し、全国行脚の修行に出ます
 この栃窪の滞在は63歳のときでまさに初期の作に違いないのですが、この像を一見
すると、素人目には異様感漂うものがあり稚拙な印象を受けます。罰当たりな言い様で
すが、当初彩色されていた様なのですが、今や剥げ落ちているし、この古仏を村人に敬
えとと言える代物ではない。この薬師堂の周辺は今でも集落らしいものはなく街道沿い
には漸く農家が点在してる程度の片田舎で、車では余程注意しないと通過してしまう程
の極小さな御堂のたたずまいです。
 想像の域ですが、恐らく江戸時代もしくは以前から宗教上の権威として保障された
遊行僧の存在はあったのではないかと思うのです。個人の僧侶がこうした地方で容易に受け
容れられるには制度的に超宗派的にも保障するお墨付きは欠かせないのではないか。
 彼らの技術者としての実力も見逃せません。自の彫像した物を収めるお堂も建築したし
当時の棟梁とは装飾彫刻もできる職能者でもあったわけです。

柳 宗悦が全国の木喰仏を発掘し、木喰の全容を明らかにしたのは大正14年の 初稿
「木喰上人の研究」に於いてです。更に再録のかたちで戦争最中の昭和18年に「木喰
上人の彫刻」として民芸協会から出版されています。

鹿沼12神将

我々が知る木喰上人となるには本人の93歳の生涯の他に近代の美意識の進展百年を待たね
ばならなかった。この微笑仏を世に知らしめてから後、逆行してこの鹿沼の彫像に至らね
ば木喰を見損なうところである。
地蔵菩薩

津波と建築

 おかしな話ではないか?
102.jpg

私は一級建築士として40数年建築業界に関わって生きてきましたが、津波について
の認識って、一体どうなっていたんだろう?自省自問です。
 建築については建築基準法があり、
第1条(目的)
 この法律は建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民
 の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的
 とする。
第2条(用語の定義)
 一 建築物 土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの
   (これに類する構造のものを含む。)これに付属する門若しくは塀、観覧の
   ための工作物又は地下若しくは工作物内に設ける事務所、店舗、興行場、倉 
   庫その他これらに類する施設(鉄道云及び軌道の線路云々は除く)をいい、
   建築設備を含むものとする。

 建築行為をする場合この建築基準法を基本に確認申請はなされているが、少なく
 ともこの40数年間、津波に関わりを持つ機会はなかった。想像するに歴史的
 に津波被害のあった市町村ではそれに関する条例やら規制地域とかあったかも知
 れませんが。

 耐震設計に特記すれば天災も含め事故や事件の度に不備が指摘されその都度
 改正されてきました。その都度講習会が開かれ、重箱の隅を突く様な規定を
 受け入れてきました。
 
 しかしながら、今回の惨状を目の当たりにし、なんとも無力感に苛まれたのは私
 だけの筈はないでしょう。木造は悉く、RCは横倒し、鉄骨はぐしゃぐしゃ。
  
 この現建築基準法を遵守してきた我々に責任はないし、罪悪感もない?。 
 じゃ土木者はどうなの、日本の縦割りは竹を割るよりシャープです。同じ現場
 でさえ土木仕様と建築仕様とが見事に使い分けられていて責任境界も明快だ。
 しかしこの領域の狭間で大きな欠陥があった様に思うのは穿ちすぎだろうか。

 地震予知の科学 日本地震学界「地震予知検討委員会編」の中の筆者コラムに
(プレートテクトニクス(大陸移動説)が日本で仮説として提唱されたのは1960年
 代でその後20年間科学的な議論、検証作業を経て1980年代ようやく定説として
 認められつつあった)という一節がある。要するにこの巨大地震が必ず周期的
 に起こるという客観的メカニズムを我が国が認識して間もないという事だった
 が今回まざまざとその脅威を見せ付けられた。ここ東海も何時くるかは確定で
 きないが必ず来るという現実だ。
 

 この写真は麦トロで有名な丸子の丸子川が駿河湾に流れ込む直前にある防潮
 水門である。静岡市街地から太平洋に流れ込む河川には大体同じ規模の施設
 がある。

  今回被災した東日本の方々にこの水門の写真を見て頂いて、忌憚のない感
 想を頂くのはどうだろうか。

 
 







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