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木喰は何時から木喰となりしか!

 柳 宗悦が昭和18年に刊行した「木喰上人の彫刻」の挿絵の最初から2枚目の写真で、
栃木県鹿沼市栃窪にある薬師堂の木喰の初期の作です。 最も初期のものは北海道
江差に残るとされていますが、本州ではこの薬師堂の薬師如来と脇時日光、月光像と
12神将の15体が最も初期の作とされ、その12神将の内の一体がこれです。
45歳の時、常陸の国木食観海上人より木喰戒を継ぎ、本廻国修行の大願をたてますが、
安政2年2月56歳の時千躰の仏像を刻むことを発願し、全国行脚の修行に出ます
 この栃窪の滞在は63歳のときでまさに初期の作に違いないのですが、この像を一見
すると、素人目には異様感漂うものがあり稚拙な印象を受けます。罰当たりな言い様で
すが、当初彩色されていた様なのですが、今や剥げ落ちているし、この古仏を村人に敬
えとと言える代物ではない。この薬師堂の周辺は今でも集落らしいものはなく街道沿い
には漸く農家が点在してる程度の片田舎で、車では余程注意しないと通過してしまう程
の極小さな御堂のたたずまいです。
 想像の域ですが、恐らく江戸時代もしくは以前から宗教上の権威として保障された
遊行僧の存在はあったのではないかと思うのです。個人の僧侶がこうした地方で容易に受け
容れられるには制度的に超宗派的にも保障するお墨付きは欠かせないのではないか。
 彼らの技術者としての実力も見逃せません。自の彫像した物を収めるお堂も建築したし
当時の棟梁とは装飾彫刻もできる職能者でもあったわけです。

柳 宗悦が全国の木喰仏を発掘し、木喰の全容を明らかにしたのは大正14年の 初稿
「木喰上人の研究」に於いてです。更に再録のかたちで戦争最中の昭和18年に「木喰
上人の彫刻」として民芸協会から出版されています。

鹿沼12神将

我々が知る木喰上人となるには本人の93歳の生涯の他に近代の美意識の進展百年を待たね
ばならなかった。この微笑仏を世に知らしめてから後、逆行してこの鹿沼の彫像に至らね
ば木喰を見損なうところである。
地蔵菩薩
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